万能感は、幼いこどもが持ってしまう幻想です。こどもは泣いたり叫んだり、ラケットを使ったりして、親、保護者をコントロールしようとします。そうしている内に、自分の願うことはなんでも叶うという思い込みをしてしまいます。まさに万能の神になってしまうのです。
こどもたちは、成長に伴い現実を知るようになっていくのが健全な状態です。親が甘やかして育てていると万能感を捨てきれないまま成人することも珍しくありません。不幸はそこで起こります。こどもは万能感に仕返しされるかのように苦しむことになりますが、その苦しみがどこから来ているのか、分からないまま悶々とすることになります。
こどもたちは、こどもの時代にあっても、万能感の仕返しに苦しみます。その典型的なパターンで残酷な仕打ちが親の離婚、親との離別です。自分の願いは叶うという思い込みは、離婚した場合に自分が原因で離婚したと思い込んでしまうのです。自分がいい子でなかったから片親が去ったと考えてしまうのです。こどもには深い痛手になります。万能感が強いほど、つまり甘やかされ、大事にされた子ほど、なにごとにも自分に原因があると考えてしまうのです。これが自己否定感となって浸透してしまいます。
このパターンは成人しても続き、自分が関係しないことであっても「自分のせいで・・・・」という思いに苛まれます。この意識は、他者と親密になることへの恐れに発展します。なにも言わなければ、感情を出さずにいたら、失敗しないと考えてしまうのです。表向きは問題なく繕うことに長けていきますが、内心では不安が離れないというストレスの多い生活が日常化します。
万能感はラケットとも結びついているので、特に親しい関係の人との間で問題が起こります。心理的に距離のある人との間では、ラケットを使わないからです。自分が不幸であれば他者はなんとかするという、他者をコントロールする発想に 裏返ってしまうことにもなります。その企みはほとんど失敗します。
万能感は「努力すれば、なんでも実現できる」というポジティブなものではありません。根拠のない自信過剰と、しかし実際にはなにもうまくいかないという自己否定感が、ひとつに強く結びついたネガティブで、何事にも不安になるアンビバレンスな感情です。
こどもの頃、泣いたら思い通りになったというようなことは、大人の世界では起こりません。それを認めてくれるとしたら、恋愛感情を持った異性だけです。だから恋愛は心地いいのです。だから依存症になる人もいます。しかし、それも熱をあげているときだけで長続きしません。継続を要求すると関係はこじれだします。自己否定感が強いと、自分が否定されることを目的に破綻を求めてトリッキーな交流をする場合もあります。
「率直、誠実、対等、自己責任」つまり健全で正当な自己主張が出来る人であるためには、あり得ない「万能感」を排除することが重要です。
自分は普通の人間であり、神ではないと再認識しましょう。こういうと、そんなこと分かっていると思う人が大半でしょう。でも本当にそうでしょうか?
では、率直、誠実、対等、自己責任を実行できているでしょうか、どのような場面でもアサーティブでいることができるでしょうか?
神だと思っていないという意味は、「驕っていない」ということではないのです。自己否定、他者否定しないという意味なのです。裏返すと完璧な人などいないという意味になります。自己否定、他者否定しているので、遠い昔にすでに効力を失っている万能感に頼り、コントロール、支配しようとするのです。つまり支配とは自己否定感の強い人、自己効力感の乏しい人の戦術なのです。
なぜ、自己否定感が強く、自己効力感が乏しいのでしょうか。完璧でないと否定されると思い込んでいるからです。自分が否定され見捨てられる恐怖、自分がひとりで生きていけないという不安を消し去るために、完璧であることを自分に求めるのです。
しかしどんなに努力しても完璧になることはありません。そこで他者否定をすることで、自己否定感を和らげようとします。
そして同時に安心を強く求めすぎ、イエスか、ノーか、白か黒か、右か左かという極端な選択肢を持ちます。これも現実的ではありません。
ほとんどの場合、イエスでもノーでもない、白でも黒でもない、右でも左でもないのです。だからどちらかにじわじわと寄せる努力、交渉が日常的になります。交渉では良い人間関係が基本になるので、良い人間関係を作る努力と、作れる自分をめざすのです。
ところが幼い時から正当に主張しないで、支配によって願望を叶える体験を繰り返していると、必要な人、安心できない人には媚びへつらうことで支配する、そうでない人には見下すことで支配する、イエスかノーか、白か黒か、右か左かの発想による、どちらも他者を支配することに変わりのない仕組みを自分の内部に作ってしまいます。
責任を負わないやり方を基準にするからです。責任をとることを嫌います。なぜなら責任をとることは、「おまえのせいだ!」と直結していて、見捨てられる恐怖そのものだからです。率直、誠実、対等に不安を覚えて、なかなかそうしないのも見捨てられる恐怖からです。「遠まわし、正直でない、見下すかあるいは自己卑下、責任を負わない」ようにしていたら、責任は相手の主体性のなかにあると思う、思わせることができるからです。
万能感から脱出するには、責任を負うことを決意することです。ラケットを使わない。イエスかノーか、白か黒かを捨てる。結果が先にあるのではなく、希望するどちらかに一歩、一歩、前進と後退を繰り返しながら、じわじわと寄せる努力を好むことです。
すぐにハッピーになることを好まないようにして、努力の賜物と思えるようなプロセスに愛情を注げるようにすることです。
失敗を恐れないことです。それにはプロセスを愛する力が貢献します。 結果よりもプロセス。 失敗する可能性を認識した上で、失敗しないように努力する。結果が約束されていないことに向かうプロセスを好むようにすることです。成功したか、失敗したかが重要でなく、成功に向かって可能な限りの努力をするプロセスに本当に自分がいることを大切にすることです。
責任を負うことを決意する。じわじわと寄せる努力を好む。プロセスを愛する。失敗を恐れない。それらの鍵が率直、誠実、対等、そして自己責任の実行です。
率直、誠実、対等であることは自己責任への道なのです。
0 件のコメント:
コメントを投稿