2011年3月15日火曜日

【トリッキーな交流】泥棒に追い銭

 「泥棒に追い銭」というトリッキーな交流は、お金に関する被害を何度も被りながら、また頼まれるとお金を与えてしまうという不思議な交流をしてしまうものです。

過去に何度も被害にあっていたら、普通は「いままでも返したためしがない。もう貸せない」というように拒否するものですが、言われるままに貸してしまう(与えてしまう)のです。そして結末は、損をして自己嫌悪に陥るというもの。

本人も「どうせ返ってこないだろう」と感じていながら、貸してしまうのですから、これは貸すというより与えている状態です。そのくせ最後には「またやられた!」と後悔と自己嫌悪に陥っているわけですから、ただごとではありません。

このように、尋常ではない、不思議なことが、トリッキーな交流に観られる共通した特徴です。最後には「どうして私はいつもこうなのだろう」と思うようになる点が単なる偶然ではないことを証明しています。相手が変わっても、始まりが多少違っても、結末は同じなのです。

 なぜ結末が同じなのでしょう?結末が目的なのです。脚本という言葉で思い出すのが映画、お芝居、ドラマですが、脚本家は用意した結末に向かって書いていきます。
結末のないドラマはありません。運命脚本も同じで、結末(目的)に向かって書いています。書いたのは自分ですが、その自覚も認識もありません。一般に人は未来のことが不安になります。

恐怖よりも、不安の方が堪えます。だから友人に相談するのをはじめ、占い師さんに診てもらう人もいます。明日のことは分からないのに、実は自分が明日の物語をすでに書いているなんで、それはもう、びっくり仰天なことをしているのです。

 「泥棒に追い銭」をしてしまう人は、無心してくる人を重宝しているのです。最後に被害にあっていますが、そのプロセスでは、「頼りにされるのがうれしい」というように、それがネガティブな交流であっても気持ちのいい思いをしているのです。
つまり「共依存」が起こっているのです。その背景には「自己否定感」があることは言うまでもありません。

一般に自他尊重の構えで生きている人は、友人も大切で、助けを求めることは出来るけれど、迷惑をかけるわけにもいかない、結局は自分だけが頼りだと自己責任を引き受けて生きていこうとします。ですから依存と助けを求めることは明らかに違うことを心身で知っています。

無心してくる人は助けを求めているのではなく、依存なのですが、自分も依存心をもっているのでその分別がつかないのです。「温かい交流ができるなら、(どんどん無心してくれ、自分は無心がうれしいのだよ)」という無意識のイメージがあるのです。

この内意識できているのは「温かい交流」だけです。客観的に観ると、本人にしたら「温かい交流」をお金で買っているようなものですが、最後に裏切られて、手にすることができないので、「また、やられた」と思うのです。

お金がなかったために、親に甘えることができなかった、苦労している親を助けてはりたかったというような過去を持っていて、その感情が未処理であった場合に、小さくても通い合っている交流を失いたくない、温かい交流を取り交わしたいと思いが潜んでいるのです。その無意識のイメージが、無心する人を好んで近づけているのです。

このような人は、温かい交流に意識が飛んでしまって、自分と他者の境界が混乱しているので、アンビバレンスな状態になります。貸しても貸さなくても、不快な気分になります。貸して怒り、貸さなくて最悪感というアンビバレンスになってしまうのです。そうしている内に、きっと気がついて温かい交流をしてくれるだろうというラケットに支配されてしまうのです。

どちらにしても、後悔しないではいられないのです。与えるしかないので、懲りずにやめられないのです。

この状態を克服するには、断った後に味わう罪悪感を処理することです。ラケットに支配されない自分を作るのです。アンビバレンスな状態を避けるには、自分はそこまで相手の責任を負う必要はないのだとライフスキルの重要なスキルである自己認識スキルを育てる必要があります。

 トリッキーでドラマティックな交流をやめるには、元(自己否定、または他者否定)から断ち切るのがベストです。しかし、それが出来ない場合には、アンビバレンスな状態になったときに、ポジティブ面を選ぶことです。

 たとえばお金を貸す、貸さないの場合なら、解釈の違いで、貸したくないがポジティブであると思えるし、ネガティブに思える場合があります。大事なことは、したい欲求の高い方がポジティブであるということです。
分らない場合は、潔く自ら自主的に与えるという選択もあります。相手が無心したから貸したというのではなく、自ら進んで与えるのです。相手の喜びを自分の喜びにするのです。

そうするとどちらを選択しても不愉快という状態は克服できるので、ラケットに拘束されることはなくなり、自己否定、または他者否定を確認することもなくなります。


 「泥棒に追い銭」ではありませんが、同じような気持ちから起こっている「代理満足」が原因の不幸についても紹介しておきます。

自分がこどもとき、若いときに思うように欲しいものを手にできなかった女性が、自分の娘には、なんでも望むままに買い与えてやる母親になることがあります。

娘と自分の境界を越えて共依存の関係に陥り、娘を自分の代理にして「代理満足」で、かっての願望を果たそうとするのです。美談っぽく見えたりもしますが、これは大変危険な暮らし方です。娘は勝手気ままに暮らせますが、真剣に働くこともせず、結婚もできず、人間として能力を使わないまま年をとっていくことになります。

母親がいなくなったらどうなるのでしょう?なにも出来ないおばさんが出来上がるだけです。

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