何度もミスを繰り返し、腹にすえかねた相手が最後に爆発して怒りをぶちまけて結末を迎える「私を嫌って」は何度も繰り返すトリッキーな交流の見本のような交流パターンです。
いくら誠意を尽くしてサポートをしても、実行しない。何度注意しても変えようとしない。粘り強い人でも愛想がつきてしまい見放す結果になります。
本人は「どうしてこんな結末になるのだろう」と首をかしげますが、同時に安堵します。安堵するのは目的が達成されたからですが、それも一時的でやがて孤立感が高まります。そこにアンビバレンスな思いを見ることができます。
「私を嫌って」は、腹立たしく見える行為ですが、客観的に見ると故意に嫌われるように仕向けているように思えます。その不自然さに隠された目的が見え隠れしています。自己処罰的に自分は嫌われるようなことをしますが、自分はダメな人間だという思いが未処理のままになっているからです。
しかし本当に「自分はダメな人間だ」と考えているのでしょうか?意識の上では決してそうではありませんが、根底には拭えない自己否定感がはびこっているのです。その葛藤を、もっとも安易な形で結論づける方法が、トリッキーな交流パターンです。
ではどのようにすればいいのでしょうか?克服の努力です。問題は「自分はダメな人間だ」が先回りして障壁になるため、負の循環から抜け出せないのです。行動の乏しさがその証拠です。することがたくさんあるのに、それに手をつけず、自分はダメだと結論を出す。つまり戦う前にタオルを投げて敗北宣言するボクサーのようなものです。そんなボクサーはいませんが、それをやってのけるためにトリッキーな交流で他者を利用しているのです。つまり怒りを爆発させている相手はカモにされているのです。
自分で自分を敗者にしているのですが、自分では結論を出せないので、他者を利用しているのです。他者は嫌な思いをしますが、そこに自己否定だけでなく、他者否定の思いが隠されていることを発見できます。しかも他者から否定されたことにしているので、反省にならないので、繰り返し拒絶される行為を続けます。
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