「キャッチ・ミー」とも呼ばれる「私を捕まえて」は、捕まった後に、なんで捕まったり、ばれたりするようなことをするのだろうか?と自分でも不思議に思えるネガティブな交流です。
「私を捕まえて」のもっとも身近な事例はなんどもスピード違反を繰り返す人に見受けられます。
本人は急いでいるからスピードを出しただけと、一応合理的なことを言いますが、急いでいてもスピード違反しない人がたくさんいます。口実の裏には隠れた目的が潜んでいるのです。
企業倒産に大きな影響がある企業内犯罪。私はビジネス・コンサルティングの立場で過去に数多くの企業内犯罪を発見~解決してきました。電話相談だけでも、会ったことのない人を特定し、その後の調査や現場取り押さえで確定してきました。
なぜ、そういうことが可能なのかというと、必ず証拠を残しているか、またはサインを本人が出しているからです。
先に説明した三角形で、救援者(あるいは支持者)の役割を演じる者が、なぜこんな問題が生じているかを正しく見抜いて、その心を見てあげる気持ちがあればモチベーションもあがるのですが、そこまで配慮することなく、自分のイメージで判断して終わりにしている方が多いのは残念です。つまりそういう人がマネジャーをしていると、トラブルも企業内犯罪も後を絶たないからです。大事なことは発見することではなく、未然に防ぐことなのです。
「私を捕まえて」という交流をする人には、捕まって自己否定を再確認することにあります。ですから問題を起こした後に、手がかりとなるメッセージを必ず出してきます。それをキャッチするか、できないかの違いは、人間の心を見続けているこちらの心のありようが重要なのです。
人の心は弱いものです。特に不安に弱い。不安になると日頃しないことでもやってしまう。「私を捕まえてくれ」を演じる人は、規則違反、嘘、盗みなどで仕掛けてきます。
ドラマにつきあわされるカモにされる人は、目上の人、保護者、警官など、自分をケアする立場にある人が選ばれます。
発覚するまでの間はこじれることなく良好な関係を維持しますが、問題が起こると関係はこじれます。つまり「3つの心とコミュニケーションの違い」で紹介したようにコミュニケーションが交叉する状態になります。
「私を捕まえて」を成人した人がやる場合、自己処罰が目的になっていることが多いのです。発覚したとき、自分と相手、周囲の人との間で混乱が生じます。「どうして、捕まるようなことをしてしまったのか」・・・・自分でも判らず後悔します。
無念さと安堵感、くやしいけれどホッとするというの真逆のアンビバレンスな意識が鮮明になります。この結末こそ、発端となる理由そのもの、つまり目的なのです。心の内側には変わりたい欲求と変われないあきらめが同居しています。結局、自分にはできないという無力感に甘んじることになります。自分は変われない、自分にはできないというネガティブな自己否定感に留まる。あるいは、さらに自分を処罰する欲求には一層強い自己否定感が働いています。
自己処罰の欲求の背景には、人生早期に身についてしまった「自分はダメな子」、「自分は悪い子」といった思い込みがあります。それらは過去の経験に裏づけされています。
「私を捕まえて」は、こどもや若者にも多いトリッキーな交流です。こどもの場合には「自立」がうまくいかない葛藤が原因になっていることが多いのです。
人は成長と共に自分の価値観、信念など自分の内側の力によって生きていくことになります。秘密を持つことも、とても大事なことで、自立と深く結びついています。自立は個人の主張のひとつなのです。しかし親との結びつきが深かすぎたり、親がこどもの自立に伴う葛藤への関心が弱いとこどもは秘密を持てない状態のまま成長が停滞します。身動きできない状態で内側の力を発揮できないでいると、このような行動に走ることがあります。
アンビバレンスな状態にあって選択するときに、ネガティブな交流を選択してしまう習慣は、自分を積極的に主張できないノン・アサーティブ、またはアグレッシブな自分を作る原因になります。それは夢の実現から遠ざけることでしかありません。
ネガティブな交流は絶対にしないという自分との約束を交わし、その励行に努めるようにしたいものです。
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