2011年3月7日月曜日

運命脚本

アンビバレンス(アンビバレンツ)、境界、禁止令、ラケット、万能感、コントロール・・・人生の大きな影響を与えている要素について説明してきました。これらはバラバラではなく、因果関係があり、それがひとつにまとまると、「運命脚本」と呼ばれる自分だけの人生の物語になります。

運命脚本とは、心理学でいう交流分析、ドラマティックな結末が用意されたゲーム的なトリッキーなコミュニケーションで綴られる生き方のことです。
繰り返し起こるイヤな出来事と構造化されている当事者個人特有のパターンです。

「運命脚本」は自分がそう呼んでいるだけで、公式な呼び名ではありません。人が自分時分自身で無意識に書いた脚本であり、意識して変えない限り、抗えないものだからです。

交流分析はTA(Transactional Analysis )と呼ばれ、957年にアメリカの精神科医エリック・バーンが創案し実用化した心理療法のための心理学です。日本では1970年代に、日本で初めて心療内科を確立した池見酉次郎医学博士によって、臨床現場に取り入れられました。最初は診療内科のための理論として普及しました。さらに診断ツールとして「エゴグラム診断」が日本独自に発達しました。

運命脚本には、映画やドラマの脚本と同じ構造をしています。はじまり(仕掛け)があり、プロセスがあり、結末があります。無意識の目的に支配される構造化した行動パターンと解釈できます。今度こそはと思っても、なぜか、何度も繰り返し同じようなプロセスを辿り、同じような結果になるという場合には、運命脚本に支配されていると疑って間違いありません。

運命脚本を完成させるために、先に紹介したアンビバレンス(アンビバレンツ)、境界、禁止令、ラケット、万能感、コントロールがそれぞれの役割を果たそうとするのです。それらは強力な働きをチームワークで機能し、自分の意志とは関係なく脚本を実行していきます。

運命脚本には、ドラマチックにするための舞台装置が必要です。
その点ではひとりで演じる「落語」ともよく似ています。落語は主人公だけでは語ることはできません。必ず主人公以外の人が登場します。

必ず主人公と相手役がいて、はじまり(仕掛け)、プロセス(交流)があり、結末があるのです。しかもドラマティクであるためには、相手役はカモになる人であり、プロセス(交流)には問題のない交流の時期とこじれる時期があります。

では、なぜドラマチックにする必要があるのでしょうか?
トリッキーな仕掛けをするから平穏には終わらないのです。目的は結末と同じですが、仕掛ける目的が自分または他者を否定することにあるからです。

なぜ否定する必要があるのでしょうか?
否定することが目的だからです。否定が目的になる理由は、未解決の問題に対する適切な回答がないために、根拠もないまま回答が決まっていて、その回答を確認することが目的になっているからです。

つまり、ずっと自分はダメな人間だと思い込んでいたとします。確信を得られないままでいると、確認するために想い(感情)を行動化します。そして行動の結末によって確信できるような回答を認識します。

「やっぱり自分はダメな人間だ。」

それを何度も繰り返すことで、確信を深めます。試し行為もそのひとつです。試す目的は、「大丈夫」を確認することより、「やっぱりダメだ」を確認することに重点が置かれているのです。否定が目的なので、否定されるまでやり続けるのです。

・一般には考えられないような劣った行動で他者から笑いを誘う
・金銭面で損ばかりしている
・不正を行い、罰を受ける立場になる
・不幸を訴えて、自己憐憫にふける
・自分のスキルが劣っていることを表に出して責任から逃げる
・罰を引き受けるスキルがないことを示唆して罰から逃れる
・自分の心や身体を自虐的に痛めつける
・相手に拒絶されるような行為を繰り返し嫌われるようにする

これらは偶然ではなく、自己否定、他者否定という目的が達成されるまで行われたトリッキーな交流の結末なのです。

自己実現のための目標を達成するまでやり続けるのと同じです。

自分に肯定的である場合には、やりたいことに熱中するだけのことなので、「こと」への集中が中心です。集中するために自分のコンディションをベストにすると言う意味で自分に関心を持ちますが、それだけのことです。ですから運命脚本は不要です。結果的に「自分はやれる」という自己効力感がごほうびのようについてきます。ごほうびに何かを買わなくても、お金では買えない「自己効力感」という最高のごほうびを手にすることができるのです。

どちらにしても、やり続けるなら、肯定的になれるまでやり続ける方が建設的です。
では、どうすればポジティブでハッピーな道のりへ転換できるのでしょうか?

まず、自分がどちらの道を歩んでいるのか、認識しましょう。
そうは言うものの自分が無意識に描いた運命脚本を知ることは困難です。自分に未処理の問題があることさえ分りません。

運命脚本は生涯を費やす壮大なドラマであり、クライマックスを迎える段階で、自分が何を目的にして暮らしてきたのか明らかになります。しかし、それでは手遅れです。ただし「手がかり」を得る方法があります。
同じようなことを何度も繰り返しているので、小さなドラマの結末を観察することで、自分がどのような結末に向かっているのか想像がつくからです。

結末だけではありません。先にお話したアンビバレンス(アンビバレンツ)、境界、禁止令、ラケット、万能感、コントロールが運命脚本を完成させるために道具のような役目をしているので、日常の態度からどのような要因が、自分にどのような影響を与え、どのような脚本を描いているのかを知ることもできます。因果関係が働いているので、要因のどこから入っても同じところにたどり着けます。

いくつかの要因のひとつである「禁止令」は運命脚本を描く中心的な役割をしていますので、禁止令から手がかりをつかむ方法もあります。

たとえば女の子が欲しかった親が、男児に向かって「女の子だったらねえ」というようなメッセージを多発すると、こどもは「男であってはいけない」という禁止令のもとで、性の混乱が起こることも少なくありません。

あるいは、離婚など離別は親の問題ですが、こども特有の万能感が災いして離別は自分の責任と受け取るこどもは少なくありません。取り返しのつかない失敗を悔やみ、深い悲しみを避けるために「異性と仲良くしてはいけない」というネガティブで強い「禁止令」が効いてしまうこともあり、成人しても異性とのトラブルが絶えない人生を過ごすようになったりします。また母親が別れた主人の愚痴をこぼすことで、より強化されます。

運命脚本では目的が結末になります。どれも自己否定感が基本になっているので、自分に否定的な結末を迎えますが、それによって安堵する点が特長的です。それは居心地のいいふるさとに帰るようなものですが、希求していたことが叶わないままです。まさしくアンビバレンスな自分のまま終わるという残念な結果になります。幼い頃に父親と離別した子は、その原因が自分にあると思い込んだまま、生涯を父親(のような人)探しというゲームに明け暮れて遂に会えないまま終えるという人生を過ごします。

なぜ遂に会えないまま終えるのでしょうか?
自分でその機会をことごとく破壊するのです。父親のような人を求めて、愛します。愛されるように行動し、愛されると、今度は禁止令に拘束されて、自ら離別に持ち込むのです。その結末に安堵すると同時に自分はダメな人間だと自分を否定するのです。それは遠い昔に味わった体験の再現です。そして繰り返し未処理の感情を味わうのです。まるでリメイクの映画を観ているような人生です。永い人生を生涯グルグルと同じ場所を回り続けて終えるのです。

この膨大なムダに訣別するために、どのような>運命脚本があるのか、参考までに見てみましょう。

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