2011年3月14日月曜日

【トリッキーな交流】不幸な私

 トリッキーな交流のひとつ「不幸な私」は、自分は不幸だと周囲の人にノンアサーティブに訴えるやり方で、相手に重苦しい印象を与えるのが特徴です。そこには他者からの同情や注目を集めたいという意図が働いています。

「不幸な私」をやる人を見極めるのは簡単なのですが、自己中心の人、他者に関心のない人には見抜けないことが多いようです。

生い立ち、境遇、パートナーの犠牲者であるといった自己憐憫のメッセージが多く、状況にふさわしくない時に表現されたりします。

・小学校の修学旅行に、私だけ行けなかったのです。
・私は美人ではないし、頭も悪いし、なにひとつ取柄があるわけではないし。
・家が貧乏だったのでね。大学さえ出ていたらね。

と、いったものがぞの一例です。このようなネガティブなコミュニケーションの裏には、自分をそのまま受け入れて欲しいという願望があります。

 問題はこの先で起こります。温かい人が、受け入れても、今度はそれを拒絶するのです。

「不幸な私」の裏には強固な壁があり、誠意のある好意であっても跳ねつけます。
「同情なんかして欲しくありません」「どうせ下心があるのでしょう」と相手を傷つるようなことを平気でします。
自己嫌悪と虚勢というアンビバレンスが同居しているので、好意には虚勢で、嫌悪には自己憐憫で反応するのです。
その奥には、人間関係の基本的な構えでいう自己否定と他者否定が潜んでいます。

 結局、本当に誠実な人でも最後には拒絶するようになりますので、「誰も自分のことを分かってくれない」「ひどいことを言う」と攻撃的になります。救済者が迫害者に変わってしまうのです。少し考えたら分かるはずの「因果関係」を考える力に明らかな不足があるのです。真摯に関わった相手は、自己嫌悪、自己卑下に陥ることになりますが、その感情こそ当人が抱えている感情そのものなのです。

結局、当人は孤立せざるを得ません。自己嫌悪、自己卑下に陥ることになり、自己否定と他者否定を強化することになります。この結末こそ「交流」の目的なのです。

しかし、どうしてこのような結末を無意識に目的にしているのでしょうか?これがラケットに拘束された状態なのです。

つまり、このような状態に置くことが愛情獲得の手段なのです。しかもこれで安心ということがなく際限がないのです。

しかし、このやり方はものすごく危険です。

 このような手段に応え続ける人とはどんな人なのでしょう。誠実に接しても傷つけられるばかりなので、ストレスに耐えられず離れるしかなくなります。

対応できる相手とは、与えるより、奪う目的しかない相手だけなのです。それでも愛情獲得しか眼中にないので、獲得のためなら搾取されても気にならないのです。結局、「本当に不幸な私」になってしまうのですが、心理的に「不幸な私」が慢性化しているので、違和感なく「本当に不幸な私」になってしまうのです。

 このような人は、想像以上に扱い方に注意が必要です。本人も周囲の人も、カウンセラーも「自己分析」を避けるのが賢明です。分析するほど自己嫌悪が進み、ますます「不幸な私」が強化されてしまうからです。努力するほど悪くなる悪循環に入り込んでしまいます。

最善の方法は不幸があっても乗り越えてきたポジティブな人に接する機会を多く持つこと、考えるのではなく行動することです。

幼少の頃の環境は自分のせいではないのです。不公平ではあるけれど、そこから学ぶことがあるなら、不公平とは言えないのです。愛情とは、励ますことであり、相手のために時間を使うことです。ポジティブな行為にしか愛情獲得の方法はありません。ラケットというネガティブな行為は自分だけでなく相手を傷つけ愛情を遠ざけてしまうのです。

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